昭和46年01月01日 朝の御理解



 御理解 第21節
 「信心せよ。信心とは、わが心が神に向かうのを信心というのじゃ。神徳の中におっても、氏子に信なければおかげはなし。カンテラに油いっぱいあっても、芯がなければ火がともらず。火がともらねば夜は闇なり。信心なければ世界が闇なり。」

 「信心せよ。信心とは、わが心が神に向かうのを信心というのじゃ」、最後に「信心なければ世界が闇なり」その初めのところと最後のところを頂いて見て大変な神様の願いというか、まあそういうものを感じますね。「どうぞ信心してくれ。信心しておかげを受けてくれよ」とこういう訳ですが、信心をさして頂く者に対して、何を願っておられるかといったようなものを感じますね。まさに世界は、まあ闇の世というてもよいのじゃないでしょうかね。その、例えば闇の世にいるしね。
 光を放つ者。いわゆるその世界を信心の光によって、明るくする者。それから「信心せよ。信心とはわが心が神に向かうのを」とこう信心して、私共がうん世界を照らすというかね、世界を明るくするというか。その世の中を明るくするというかね。その明るくする、例えば未来を神様が持ってござると言う事。また私どもがそれを明るくしなければならない、言うなら、責任すらもここに感じます。果たして信心を頂いておって、どれほどしの事が脅威であろうかね。
 なほど信心をしておりますね。(?)も(?)の終日が、悪いのというばかりでね。一年中の言わば、おかげを受けたことを、本当に考えてみますと大変なことでございました。けれども、そこのところを信心頂いておったおかげでこのようなおかげを頂きましたというのが、そういうお届けが多かったですね。あれは恐らく毎年が大変な年だったと言う事かもしれません。またそういうなら難儀がいっぱいが、言わば世の中に満ちあふれておるのですから。
 またその一人一人の家庭の家にもそういう、難儀がいつもあっておるのです。感じるのです。それをひとつひとつおかげを頂いて、有難い事になってきておる。私は夜の(?)にお参りした時のある御信者に申しました。今年もいろいろとおかげを頂きましたが、とうとう借金の支払いもできずに今年終わってまいりました。本当に神様に対して相すまん。というふうなご理解を頂かれたんですね。いわゆる神様の信念に関わる。
 信心しておっていつまでも借金を負うておったり、栄えなかったと言った様な事では神様の御心に関わる。神様の修行に関わる。まあそういうお粗末御無礼な1年であったという訳なのです。それで私は申しました。まあ普通どうぞ良い年をお迎え下さいと言うのですけれども、そうした例えば借金で頭が重いと言った様な人達に、その良いお年を迎えれるはずがありませんのでね、何とはなしにああ借金支払いに、まあ少しばかり払いに行って断りを言うて来たとかね。
 断りを言うた時のあいつの顔に何か思いますとかね。どんなに思うても、やはり良い年をそれでは迎えれる筈はない。けれどもたつのごとに申しましたね。良い年を迎えられないでもね、有難い年はむかえられますよ。だからどうぞ有難い年を迎えなさいよと(笑い)(?)に申しましたね。(?)の事をずっと思うてみなさい。成程借金払いこそ出来なかった。けれどもその中からです、借金払いこそ出来なかったけれどもです。そのことでどのくらい鍛えられたことか。どのくらい信心が分からせて頂いたことかね。
 そのことをあれこれと申して頂いておるとです。それこそ良いお正月でなかったにいたしましても有難いお正月は頂けます。どうぞ有難い年をお迎えくださいと(笑い)。もう本当に有難そうにしておられました。夫婦の方が目に涙をいっぱい浮かべて、本当に先生、有難い年を迎えさせていただく事ができますねと。言わば言わんばかりの顔でまあ帰られましたね、私は信心とはですね。自分の都合の良いときはにこやかである。自分の都合の悪いときには、それこそ渋柿を食わしたような顔しておる。ね。
 自分の便利になる事ならにこにこ、自分に損にでもなる事ならとても、それこそ閻魔様のような顔をしておると言った様な事ではなくてですね、特に信心とはいつでもね、和やかな、にこやかな心でおれるけいこでありますね、そういうおかげを頂きたいですね、私はまあここ何年でしょうかけれども、お正月を迎える度に思うんですけれどもね、まあ皆さんがけたたましゅう、そのお参りをしてきてまあ、いわゆる険しいお願いをなさった訳です。またお広前では元旦祭の、準備でおおわらわでございました。
 丁度その時みて、今年も今日で例えば終わりだなと、明日は元日だなと思うだけであって一っつも元日のような気分が致しません。昨日みんなこれはどうぞ、皆さん新しいタオルを下ろして、いわゆる若水を汲んで、新しいタオルでお顔をふいて下さいというわけでお供えがなっとった。みんなあそこで休むような気でおりましたけども、私ん時はあれでいいぞとまあ言ったことですね、新しいタオルで顔を、いわば洗うて気分を作ろうと言ったような(笑い)思いがさらさらない。
 それはどうしたことであろうか、どう言う事であろうか。それでもやっぱり皆さん達は目出度い目出度いと言いなさるから、やっぱり明けましてお目出度うございますを言わなきゃならんのに、とにかく正月の気分と言った様なものを、神様は頂かせて頂きたいと思っとる。だからこんな事もお願いさして頂いた。そしたらね、もうそれこそめでたそうな顔をした鶴がいっぱいね、飛んで来るところを頂いた。まあ鶴が目出度そうな顔っちゅうことはどうか知らんけれどね。
 まあ私の御神願に頂くところをみんな眠たそうにしてるんですよね、そして合楽には合楽にと、こう飛んできておる姿なんですね、そしたらね本っ当こう太陽がね、あの真っ赤にそれこそ燃えた太陽がね、こう朝日の、まあ暁雲というですかね。あの雲を破って来れておる、そこのところへ鶴がブーンと入って来るところを頂くんですね。そして下ごと見ると、この若松、老松、松の山がずうっとあってね。
 それこそ池の身際じゃないけれども、その松の右肩に大きな亀がこうやって、そのそれこそ大地に飼うておる様な形でね、そのおる所を頂きましたね、目出度いとかと言う様な時にはね、やっぱり鶴亀が舞い遊ぶようなと位目出度いとね、そして御理解21節、例えば信者氏子が、言うならおかげを頂いて、目出度い目出度いと言うて集まって来るね、その目出度い目出度いと言う、その事をお取り次ぎさせて頂くのであってね。私はねもうとにかく、大気にひれ伏しておればそれでよいという御理解を頂きたい。
 亀とゆうね、まあ私の事を亀ね、ここにいれば飛んで来るのを、いわば鶴とゆうように表現しての御理解なんです。亀がめでたそうににですね、そげん飛んでおったらおかしいですよね(笑い)亀はやっぱりぶわぁっとこうやって、それこそ大地にひれ比しておる。ね、それに鶴の方が舞うてくる、又は舞い降りて来ると言う様な、そう言う事なのだから。私がめでたそうにしとかなくてもいいとゆう訳なんです。言うならそうでなからなければならんとゆうのです。
 そしてこれは私が思いましたね、御教えの中にもありますようにね。「世が明けたら元日と思い、日が暮れたら大晦日と思い、日々嬉しゅう楽しゅう暮らせば家内に不和はない」私は確かに、もう日々がこのようなおかげを頂いておるからだと思いました。もうね明けましてお目出度う御座いますもいらん。最近は三男の幹三郎がもう3時には起きます。私が一緒に起きます。それでも3時半にはここに出てまいりますね、親子で暗い廊下をずうっとこう一番初めに、あのその日でした。
 暗い廊下を私が前に進み、後から幹三郎が進んでまいります、あの途中にですね、お芝居に連獅子というのがありますよね。連れ獅子と書く。いわゆる親獅子が子獅子を、愛情をもって、しかもその愛情をもって鍛えるというお芝居なんです。はあ私はこのようにして子供を教導しておるんだ、このようにして鍛えておる訳なんだ。2人が大接台を挟んで30分間ずうっと座っておる。もうその雰囲気というかね、もう毎日毎日が本当に明けましておめでとうございますを言う以上のめでたい思いでね。
 30分間を過ごさせて頂く事が出来る程し、のおかげを受けておると言う事だと思います。ことさら明けましておめでとうございますなどと言わなくても、もう日々がそのようなおかげを頂いておるね、そのためには、やはり元日の心であるね、それこそもの一つ言わせて頂くでも言うならば、有難い事目出度い事、人が喜ぶ事人が助かる事。そういう言葉だけを心の中に工夫しながら出しておく。まあ普通でこの辺の言葉で言うならもう、うんがんがんちゅうことある。
 そいうものが一つもないね、ところが日頃がねうん、がんがんと言うて言いおっても、正月だけは貴方此方と言っておると言った様な人が多い中にです。私共はそれが反対なんです。だから私はおかげを頂くんだと思いますね、だから日々が元日の心なんです。日が暮れたら大晦日と思うてとね。そういう日々を過ごさせて頂くと言う事。「信心せよ。信心とは、わが心が神に向かう」私は神に向かう心というのはそういう心で、日々信心をする事だと思いますね。
 ほんと信心とはね、だから自分の都合のよか時だけにこにことかじゃなくてですね、いつでもどんな時でも心が和んでおる、にこやかでおれれると言う稽古。信心をするにつきます。ために言うなら御教えにね、元日の心とか大晦日の心を持ってとこう言うて下さる訳ですよね、「神徳の中におっても氏子に真なければおかげはなし、カンテラに油いっぱいあっても芯がなければ火が灯らん」ね、そういう心で神様へ向かう。そこからねなるほど神徳の中じゃなという事が分かるんですね、
 すばらしい日々、素晴らしいおかげの連続、素晴らしい神様の、言うならば素晴らしいタイミングの中に日々生活させて頂くね、神徳の中にあってもそういうおかげの頂けれるような中、そいうおかげの受けられる信心を頂いておってもそういう世中に住んでおってもね。結局そういう信心が無かったら、成程世界は闇でありますね、火が灯らねば世は闇なりでありますね、火が灯ると灯っておると言う事は、例えば暗い様な事が起こっても、その光のおかげで一つは暗い思いはしとらん。
 どんなに腹の立つような問題があってもです。心に信心の光があれば一つも腹を立てていないと言う事なんです。いやむしろお礼が言えておると言う事なんですね、私はそういう信心の光をね、受けなければならない。また神様は受けてくれよと言うておられるという感じでありますね、「信心無ければ世界が闇」だと。その世界が信心の光によって輝いてくる。そういう願いをこの21節から感じます。神徳が満ち溢れたような感じね、言うならば世界中の氏子におかげがやてある。
 けれどもね、それを神徳の中にあると言う事を分からして頂くと言う事がです。和賀心が神に向かわなければ頂けんのです。和賀心が神に向かうというのはね、今日私が申しますお話から言うとです。いつでも心が和んでおる、いつもにこやかでおれれるというけいこ。いつも元日のような心掛けで、大晦日のような思いで日々を過ごさせて頂くという、そいうけいこが神に向かうのであり、そういうけいこの中から感じる事はです。成程神徳の中にあるんだなあと言う事が分かる。
 いわゆる火が灯っていた心が、心に火が灯ってきたね、だから自分の周囲を明るくすることができる。昨夜の前夜祭の後に、時間がございませんでしたから14、5分間でしたけども、聞いて頂いた事の中にも申しておりますように、本っ当に自分の心の中に信心の光を頂いてですね、その光がね次々と世の中を明るくしていくような働き。その切なる願いというものをです、かけられるおかげ。私が例えばね、もう去年ですね。去年の一年間に頂いてきたおかげというのは。
 天地金乃神様の御信心を教祖の神様がお伝え下さり、私どもが助けられる事になり、その助かり方が一年一年輝きを増した助かりになり。例えば去年一年の信心を振り返ってみるとです。いわゆる天地金乃神様のお徳の、いわゆる広大無辺なことね、これは言葉にはどれほど使うてきたか分かりませんけれどね、その広大無辺な働きであると言う事をいろいろな角度から分からして頂くことだと同時にね、その広大無辺な心をね、私の心私の信心の中にね、頂けたと言う事なんですね。
 いわゆる神の心を心としてと言うでしょね、神の心を心としてという事をです。私に言わせるならば、その神様の広大無辺、どこまでね、広いのやら深いのやら分からないほどしのです。そいう働きをです。去年という去年はあらゆる角度から頂いた、感じてきた。ね、そして感じただけではないその心をね、私の心に映す事が出来た。それがどういう事になったかというとね、人間の幸福とは人間の幸せとはね、ここに教祖生神金光大神御出現以来、はっきりとこういう実意丁寧な神信心の生き方にあるのだとね。
 人間が幸福にならせて頂くにはね、いわゆる金光教祖と生神金光大神がね、辿られた、言わばご生活のあられかたなんだ。生きられ方なのです。または物の見方、感じ方なのである。ね、それを私どもが神習わせて頂いてです。私自身が思わせて頂く事はここにこういう幸福の道にならして頂ける道があるという事を分からして頂いた。そしてそれが分かっただけではなくてです。ね、今申します、広大無辺な心を持ってです。この私の思いが一つの願いになって、世界の隅々にまでです。
 人間の一人一人がです。成程幸福の生き方というのは、こう言う事だと分かると言う事だけでもいいから分かってもらいたいという願いがです。もう非常に強くなったという、それは実感を持って感じる事だと言う事なんです。これをある人に言うたら、いや私というてもよいね、何年前まではとても世界中の事なんか願えというたってね、願えなかった。成程(?)は申しますよね。世界真の平和とか、総氏子のいわゆる身の上安全とか、けれどもね拝して唱えるそんなものじゃないね。
 それもそこに助かって貰いたい、というのではなくてですよね。ここにこういう幸福な人間が本当の幸福にならして頂けれる本当の道がここにあるのだとね。だからその道をですね、なるほどこういう生き方をすりゃ人間が幸福になるだろうなとみんなが分かってくれるだけでいいんですね、そのためにはね、私自身がね、やはり幸福にならなければならないね、誰が見ても、ほんのこと親先生が(こううげん?)なさろうなと思えるように(?)なければならないね。
 ただ自分または自分一家の事の上にだけ、言わば切実さと言った様なものがあった私がです。段々段々、信心の稽古をさせて頂くにしたがって、言うなら、まあ(?)言うと言うなら合楽の信者だけが助かりゃよかと言った様なね、小さい思いからですね、それがもう金光教て何て言うでしょうこまいこまい(笑い)世界中の、人間がです。本当に幸福になっていく事の為に、こういう道に入らなければ、こういう道を辿らなければ人間は幸福にはなれないのだとです。
 私は分かってもらえれる運動とでも申しましょうかね。そういう働きかけとでももうしましょうか。そういう思いがね、しかも天地金乃神様の広大無辺な心とも同じような意味においてですね。私の心の中に広大無辺な言わば願いがね、そのようにしてできるようにならして頂いたという事がね私は去年、いわゆる1970年です、の私は一番の有難い事であった。もちろん願いの発端がね、いわゆる和賀心時代期間と言った様な事でございましたので、去年の正月は和賀心と。
 いわゆるそれが切実にですね、いわゆる広大無辺な天地金乃神様のお心をそのまま自分の心に頂いて、それが願えれる、思えれるようになってきたと言う事です。いやあ先生はそげな多くの願いばっかりしてござるなあ、これは私どもおかげが頂かれまいちゅう事なる。そのことも分かった。それこそ大は小を叶えるであるね、私は世界中の事を祈り願わせて頂いておる、その世界中の氏子の中に合楽のみなさんもあると言う事なんであるね、すばらしい事になってきたでしょうね。
 だから今夜はね、私は何が大きいというても、天地ほど大きいものはない。その天地の心を心として実感としてですよ。私が神の心を心として祈り願えれる私にならせて頂いたのであるからね。それこそ天地ほど大きいものはない、その大きな心が合楽にもだんだん備わってきた。だから多くのおかげが頂けれるというのである。私の心のこういう状態が強まってきたからだと思うんです。もういっつも頂くのがね、いわゆるオールマイティと言う事であるね。
 又はジャンボと言う事であるね、大型という意味でしょうかね。ですから私は本年は一つ大きなみなさんにおかげを願ってもらわなければならない。それも私がね。私が幸福になると言う事のためではない。私だけが幸せになる事のためではない。私自身が幸福のおかげを頂くと言う事がです、取りも直さず、今日の御理解に世界に広げていけれるという事の為にです。ようやくにいよいよ立たして頂く事の為にね、金庫の上にも経済の上にも、全ての上に大型のおかげを頂かせて下さいと言う事なんです。
 そこでですよね、私共はそういう大きなおかげを頂けるという一つの確信を持ってですね。ここにたんざくに4代金光様の、御事跡を真似て書かせて頂いたお歌のようにです。「こればかりの事なるからに、良からぬと心許すに過ち起こる」とね。どんなに多くのおかげを下さっても、どんな多くのおかげを、例えば願って下さっても、それがいつのまにかちゃんと空んなってしもちゃったけんどうもこうもできんでしょうね、ですからそういうこれくらいの事などと言う様な考え方を捨ててですね。
 それはその人その人の信心による事ですけれども信心なりにですよね、そこんところを実意を込めておかげを頂いていこうと言う事。「信心せよ。信心とは、わが心が神に向かう」のであると言う事を、言わば私が神徳の中にあって、なるほど御神徳の中にあるんだなというおかげの実感というものをです、感じれると言う事だという風に、まあ申しましたね、そして一番最後の「信心なければ世界が闇になる」と仰っておられることはです、共々氏子信心してですよ。
 世界を少しでも明るくしてくれよ、照らしてくれよという神の願いをここに、私聞くような思いがいたします。ですからみなさん、小さい自分の事より自分一家の事じゃなくてです、少しでも大きな事がです、言うならばまあどうぞ、まあ実感を伴わなくても私が言っておる世界中にですね、私どもは金光様の御信心を頂くことによって、ここにこういう幸福な道があるんだと、幸福になれれる道があるんだと言う事をです。世界中の人が知ってもらえれる事を願って願って願いぬいていかなきゃならん。
 しかも願い継いでかなきゃならない。これは千年も万年も掛るそりゃ分からん。けれども自分の周囲から少しでもです。信心の光というものをね、多くしていくことの願いを私どもは持たなければならない。そういう願いを私は大きな願いだという事を思わして頂くね、私は今年何がめでたいというても私の心の上にですね、そういう例えば天地の親神様のお心を心としての願いと言う事がね、こうおかげを頂いて参りました事。これはねもう合楽全部の方達が一つ、お祝いしても良いぐらいの事だと思います。
 だから皆さんもその中にある。又その中に浸って皆さんもその気になればおかげを受けられるという道がついて来る事を私は確信いたします。ね、ですからみなさんのこれは精進としてです、言うならそういうおかげを神様が下さったに致しましても、差し引き計算したら何も残っとらんじゃったと言った様な事ではないようにね。この位な事だと言う様な言わば横着な心、いわゆる実意でない心と言った様なものを一つ、改まった上にも改まらして頂いておかげを被っていかなければならんと思います。
 私がねこうこう元日だからというて取分け元日の気分がしないと言う事は私が日々元日の心でおるからだと言う事を申しましたがね、信心とはもうそれにつきるのです。「世が明けたら元日と思い、日が暮れたら大晦日と思うて」とそういう稽古をさして頂く内にです。今日のお話の中にありますように、自分が都合良かればにこにこ、自分が都合が悪ければね、それと反対の、言わば顔をしておらなならんと言う様な事ではだめだとね、そういうおかげを頂かして頂いて初めてです。
 はあ信心さして頂いく事の幸福というのがここにあるというのが言えれるのですね。私どもの信心によっていよいよね、闇の世にも等しい。例えば現代社会の状態というものを思うてみるにつけててですよね。信心さして頂く私達がです、そこを少しでも明るい社会に貢献さして頂く。そこに転進さして頂くという、例えばそういう願いね。そういう願いを私は今年こそ立てさして頂いて、なるほど実感としてですね。自分の事と同じ同等な、切実さを持ってですよ。世の中の事が祈っていけれるような稽古を一つしっかりしていかなければならんと思うのでございました。
   どうぞ。